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聖三位一体の大祝日      Festum sanctissimae Trinitatis


 聖霊降臨後第一の主日には、救霊の御事業に関係あるこれまでのあらゆる大祝日の締めくくりとして、聖会暦中でも最高の一つに数えられる聖三位一体の祝祭が行われる。聖会はこの日を他の大祝日ほど盛大には祝わない。それは如何に努めても到底聖三位の尊厳さにふさわしい祝賀は出来ぬからである。が、その代わりに聖会は毎日曜を聖三位一体に献げている。

 本日記念するのは最も深遠な、最も神聖な信仰の玄義である。すなわち一にして三位なる天主、そのものである。聖父も天主、聖子も天主、聖霊も天主である。しかし三つの天主には非ずして唯一の永遠無限、さとり難き天主なのである。何となれば神聖及びその本質は全く同一で、三位ことごとくこれを共有しておいでになるからである。すなわち天主としては聖父が聖子より偉大でもなければ、聖子が聖霊より偉大でもない。全く優劣がない。ただ聖父は第一位であり、聖子は永遠に聖父の本質より生まれ給うが故に第二位であり、聖霊は聖父並びに聖子より出で給うが故に第三位であるという区別があるばかりである。
 この深い玄義は到底限りある人智のよく了解し得る所ではない。それは聖アウグスチノの伝説にある如く大海の水を小さな砂中の穴に注ぎ込むよりも難しい話である。もし我等に悟り尽くされるような天主ならば、それは決して真の天主(無限の御者)といえぬであろう。
 けれども悟り得ぬという事は道理に合わぬという事ではない。自然界においてすらも我等の浅智慧に解し得ぬ事物は沢山ある。そうとすれば至高なる霊界最大の玄義が解らぬのはむしろ当然ではないか。実際我等は天主の特別の御啓示がなかったならば、そういう玄義があるという事さえ知り得なかったに相違ない。
 所が幸いにして聖父は聖子を我等に遣わし、その御口から告げしめて御自分を示し給うた。聖子は肉となって我等の中に降誕せられ、御自分を示し給うた。聖霊はその降臨の日に、聖会や我等の心において、聖父及び聖子より委ねられた使命を果たし御自分を示し給うた。そしてイエズスがヨルダン川で受洗された時には三位共に現れ給い、聖父は、「これぞわが愛子なる」という御声により、聖子は洗礼により、聖霊は鳩の形により、それぞれ御自分をお示しになったのである。なお本日の聖福音(マテオ28・19)中には主イエズスが聖三位の御名を明らかに告げておいでになる。曰く「汝等行きて万民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によりて是に洗礼を施せ」と。これは御昇天の前使徒達に仰せられた聖言であった。
 しかし何にしても無限なる天主の御事は悟り難い。我等は素直に謙遜に、その御前に頭を垂れて「主よ、我は信じ奉る。わが弱き信仰を助け給え!」と申し上げるがよいのである。
 なお、我等はこの大祝日に当たり、至聖三位の御恩を感謝せねばならぬ。創造、救霊、成聖の御業はいずれも聖三位共同の御力で成し遂げられたものであるが、聖三位の起源が相違しているので我等は普通それぞれの起源にふさわしい御事業を、その各位に割り当てて考えるのを常とする。すなわち聖父は聖子を生み給うた。故に我等は天地の創造主全能の父なる天主を信ずと使徒信教に於いていうのである。また聖子は聖父の永遠の御認識、御智慧に他ならぬ。さればこそ創造における秩序はその御作用に帰せられ(ヨハネ 13)殊に救世の御事業は、その御計画が聖子に依った他に、聖子御自身肉となって我等の為に苦しみかつ死に給うた所から、聖子の御業とされている。最後に聖霊は聖父と聖子との相互の無限愛である。それ故天主の恩寵の業はことごとくこれに帰せられるが、わけても創造における自然的生命の付与、又聖寵による超自然的生命の付与、言い換えれば成聖の御業等は聖霊の御仕事といわれているのである。従って我等は聖父に創造され、聖子に救われ、聖霊に成聖されるということが出来よう。
 更に我等は己の生活が全く聖三位の御力で営まれている事、またあらゆる秘蹟や祝福が聖三位の聖名に依って与えられる事をよくよく考えねばならぬ。例えば洗礼の秘蹟に於いては「我聖父と聖子と聖霊の聖名によりて汝を洗う」という言葉と共に水をそそがれた時、天主聖三位は我等のうちに来たり住み給い、我等をその聖殿として祝別し、永久に消えぬしるしを霊魂に刻みつけ給うた。さればこの聖いしるしを汚す大罪を避ける事こそ我等の戒心すべき点である。何となればこのしるし以外に苦しみの時迫害の時我等の希望を支えるものはないからである。故に我等はこのしるしをいよいよ輝きあらしめる為、天主の聖旨を忠実に果たして聖父と聖子と聖霊の御光栄となるべきである。その他告解の秘蹟に於いても、終油の秘蹟に於いても聖三位の聖名によって罪が赦されることはあまねく人の知る所である。
 聖三位の讃美については聖会が最も立派な模範を我等に示している。聖会の祈りには聖三位に対するほめたたえが沢山ある。司祭や修道者がとなえる聖務日祷の詩編はことごとく「願わくは聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを、始めにありし如く今もいつも世々至るまで。アーメン」という栄唱で終わっている。また聖務日祷を始める時も常にまずこれを唱えるのである。
 しかし聖三位に対する最も優れた祈りはミサ聖祭であろう。それは聖三位を褒め称え、これに感謝し、これに恩寵を求める犠牲の祭りである。故に聖父と聖子と聖霊との聖名によりて始められるミサ聖祭を拝聴すれば、我等は聖三位を最もふさわしく礼拝することが出来る訳である。そして我等は聖三位の御啓示を受けて有難い天主の子たる身分になったのであるから、御ミサの際三位一体の玄義に対する信仰を益々堅固ならしめ給うよう、祈り求めることを忘れてはならない。